違法拉致強制入院日記 〜国が、濫用可能なまま温存する医療保護入院制度。診断材料をひたすら隠し軟禁するだけの病院の内側。〜 第三版 2010年11月3日 本書の背景となる犯罪を私に訴えながらも亡くなった清水由貴子さん、 そして、同犯罪を訴えるすべての方々に捧げます。
【 はじめに 】
私の名前は戸ア貴裕です。本書は、「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」、それから、「違法拉致冤病のあらすじと証拠」でお話している私の事例について、医療保護入院中の様子を、当時の記録から書起こしたものです。 本書を読み進める前に、「日本語では知らされない精神医学の嘘 〜精神医学の嘘から、グローバル製薬企業が日本市場に仕掛けた『うつ病キャンペーン』まで。〜」をお読みになると、国家犯罪のからくりが、よりわかりやすくなると思います。同書は主に精神医療という医療詐欺システムのグローバル化に端を発する話ですが、英語圏ではこれを告発する専門家やジャーナリストがいる一方で、日本のメディアが伝えない、日本の権威が議論しない根本的な詐欺のからくり、そして、日本において、この精神医療のやり方をお手本とし、実証を必要といないあやふやな病名と診断を利用した医療偽装により、多くの国民を患者として飼い殺しにする集金システムがあちこちで構築され、さらに維持拡大されつつある、その一端に気が付くことができ、また、言いがかり診断を論破する知識も身に付くでしょう。 違法拉致に至る経緯やその後の民事訴訟については「拉致冤病のあらすじと証拠」に詳しいのですが、本書のみをお読みの方のために、簡単に経緯を記します。 私は、元同僚で当時交際していた女性の「社会的に抹殺することも出来るのよ。」「私には実績があるということを覚えておくことね。」といった意味不明な言動に伴い行われはじめた、執拗な迷惑行為や生活妨害行為等について勤務先で告発し、それら行為の映像記録を開始した後、一人暮らしの自宅にチェーンキーを破壊して押し入ってきた人物らによって突然拉致され、診断材料となった報告書等の内容を私に対して決して明らかにしない病院において、即日から閉鎖病棟に軟禁されるという経験をしました。当時、法律知識も無く、普段から弁護士と付き合いがあったわけでもない私は、退院の機会を待ち、その後、私を強制的に入院させていた病院で担当医であった医師を問い詰め、同医師が、はじめから症状など説明できないと話す音声を録取した上で、同医師に、精神科病名にあたるものがあるか不明、治療の必要は無い、との診断書を交付させました。その上で、法律を調べ、自ら提起した民事訴訟(本人訴訟)では、私に対する拉致を違法とした判決が確定しています。 「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」と「違法拉致冤病のあらすじと証拠」は、民事訴訟における証拠や認定事実、判例と学説による法令解釈といった客観的事実のみを前提としています。特に、「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」では、国が、冤罪よりもはるかに簡単な方法で、国側の手を汚さずに、本人には知らされない一方的な報告内容により、国民を拉致監禁し、社会的に抹殺することのできる制度を温存し、幇助している事実を、判例と法令から証明したうえで、精神科診察の可視化などの提案を行っています。 一方で、本書は、映像・音声記録のかたくなに禁止された長谷川病院閉鎖病棟内での出来事について、日記という形で書き残したものにすぎませんが、この日記により、診断材料を隠し通しながら、人を閉鎖病棟に軟禁し続け、病歴と入院歴を捏造するだけの精神医療茶番劇、その実態を少しでもお伝えできればと思います。 なお、医療保護入院制度の違法性を訴えている八木美詩子(やぎよしこ)さんは、ご自身の著書「閉鎖病棟からの告発」の中で、閉鎖病棟内の様子を書かれています。この方も、自宅で突然拉致されて病院に連行され、医療の名を借りた社会的抹殺を体験していますが、対比していただくと、閉鎖病棟内の様子や医師の対応が似ていることに気づかれることでしょう。
【 違法拉致強制入院日記 4月 】
この日記は、私が入院中に書いていました日記を元に、現時点での注釈等を盛り込んだものです。 それでは、4月の日記からです。
2005年4月14日(木) 拉致、監禁、そして医療保護入院開始の日。長谷川病院内でも、拉致・監禁を行った男性4人に周りを固められていました。連れて行かれた診察室で、宮内茂の前に座らされました。とはいっても、このときは宮内茂という名前も知りませんでしたし、白衣を着ているから医師であろうということくらいしかわかりませんでした。宮内茂は、私には決して見せない報告書をぱらぱらとめくりながら、診察もせず、なぜかおどおどした様子で、母が入院を希望しているので入院しましょうとだけ言ってその部屋を出て行きました。
私は、一人暮らしのマンションの部屋にいながら拉致、監禁され、診察もなく、知らされることの無い報告内容を理由(診断材料)として、これから閉鎖病棟に軟禁されるのです。拉致の際に出血した両足の怪我の治療をし、その後、血液検査、頭部CT検査、レントゲン検査が行われ、私は閉鎖病棟(C3病棟)に隔離されました。その間、閉鎖病棟に入るまで、拉致実行者らが周囲をかためており、トイレにまで入ってくる始末でした。
閉鎖病棟に入れられると放置された状態になり、入院生活に関する説明が全く無いため、他の患者の方々とコミュニケーションをとり始めました。ここには、男性も女性もいます。
私はこのとき、診断材料となった報告書等を見せてもらい、病院側のまともな医師や看護師と話をすればすぐに出られるだろうと考えていました。また、これは後に理由を書きますが、逃げ出すと不利になると考えてもいました。
この日の夕方より、朝夕の投薬が開始されました。薬の説明はありません。そもそも、何故医療が必要なのかの説明もありません。後日、病院内にあった専門書でこの薬について調べたところ、リスパダール錠1mgを朝夕1錠です。薬を飲む際には、コップを持参したうえで、看護師の前に一列に並ばされ、一人ひとり薬を手渡しされます。そして、薬を飲む様子を看護師が確認します。私は、この薬を飲まずに捨てていました。
初日に驚いたのは、夜中に3回、夜勤の看護師が各部屋を見回る行為です。この病院では、ほとんど全ての制度や看護師の行為について、事前の説明というものはありません。突然、懐中電灯を灯しながら部屋に入ってくるので、初日は驚きました。
とにかく、この日から閉鎖病棟に軟禁ですので、病室、食堂、リビング、病棟の廊下、トイレ、そして週に4日入れる浴室のみが、私の世界の全てになります。
病棟内の生活パターンは、以下のように決められています(24時間表記)。
起床:06:00 朝食:07:30 モーニングミーティング:10:00 昼食:12:00 ティータイム: 15:00 夕食:18:00 消灯:21:00
2005年4月15日(金) 元彼女(「違法拉致冤病のあらすじと証拠」でお話している鹿又京子ではなく、その前に交際していた女性。)と母親が病室に尋ねてきました。母親は、病院側から呼ばれない限り、尋ねて来ることはありません。母親は、私の借りているマンションの部屋に泊まったようです。鍵はどうしたのでしょうか?大家さんと話がついていたのでしょうか?私には何の断りもありません。
この日、母に、入院の同意を取り消すよう話しましたが、音声を公表している会話のように、話をはぐらかすばかりで、拉致に至る経緯などについて問い詰めると、不気味な笑いを浮かべながら、元彼女をほったらかしにして、帰ってしまいました。拉致時の映像とは人格が違います。
後の民事訴訟に至るまで、診断材料となった報告書等の内容、それから拉致に至る経緯が、私に知らされることはありませんでしたから、この当時、私は、母が精神科診断のために私の言動を捏造して報告していることなど知る由もなかったのです。
2005年4月17日(日) 元彼女が尋ねてきました。この日、担当医決定の知らせがありました。入院後3日経つまで、担当医さえ決まらないのです。しかし、実際に担当医の方にお会いしたのはさらに2日後です。初診察は、拉致、監禁、強制入院日から数えて6日後です。理由も説明できずに人身の自由を強制的に奪うのであれば、用意くらいしておいてほしいものです。
2005年4月19日(火) 午前中に腹部エコー検査。午後4:30、担当医である川原達二医師が、初めて病室を訪ねてきました。入院して5日、投薬のみで、ほったらかされていたわけです。しかし、この日に診察があったわけではありませんし、入院中も、診察とは名ばかりの会話ですから、ずっと投薬のみでほったらかしという状態だったわけです。そして私はこの薬を捨てていましたから、単に軟禁されていただけということになります。この日、川原医師の話によると、私は診察も無いまま、第三者の報告書から読み取れる「疑い」で拉致・監禁されたのです。これを正当化する法律はありませんが、罰する法律はあります。刑法220条(逮捕及び監禁罪)、刑法130条(住居侵入罪)です。
それから、病室の移動がありました。ここでは、病室の移動やメンテナンス工事が頻繁にあります。
2005年4月20日(水) 午前10:40〜、川原医師による初の診察(と称する茶番。)。川原医師は、報告書をめくりながら、診察もしていない高橋龍太郎から「妄想状態」という報告がなされているということと、その他報告書が出ているということを私に話しました。報告書には、鹿又京子のことが書いてあったらしく、川原医師は、鹿又京子との別れ=ストレスと決め付けるような言い方をしていました。女性と別れたことがストレスで病気になるなら、私はこれまでの36年で、9回病気になっていないとなりません。これでは因果関係の説明にはなりません。それから、川原医師は、「ほんとうに幻聴ないの?」としつこく聞いてきました。そんなものがあったら、まともに会話が出来ないと思うのですが。
→「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」と「違法拉致冤病のあらすじと証拠」にあるとおり、この川原医師医師が、後日、私の追及に対し、「幻覚がないし、それから他にも病的体験が無いし、興奮するわけでもないし、話してるうちにおかしくなっちゃうわけでもないし、机の上に乗っかって暴れるわけでもないし」、「で、あなたの場合は、そういう意味ではその、微妙なのね。だから、明らかな、その精神病症状が、だから、わかんないのよ。その、妄想なのかどうか、なのか、がね。」と話し、その後「現時点で精神科の病名にあたるものがあるかどうかは不明である。したがって、継続的な治療は必要としない。」との診断書を交付することになります。
私は、私に対して行われた鹿又の言動や生活妨害行為等は映像や音声として記録可能な事実であり、それらの検証を全くせずに病気としての妄想の可能性だけを押し付けるのはおかしい、報告書に何が書かれているのか教えてください、と話しました。すると、川原医師は答えに窮したように、いきなり態度を豹変させ、「そんな些細なことは枝葉末節なんだよ。」「あんたの言っていることは全て他人事なんだよ。」と言い始めました。川原医師には、論理は通用しません。そこで、「入院においては、私が何を言っても無駄と言うことですか?」と川原医師に聞くと、彼は「そうだよ。」と答えました。論理が通用しないので、とりあえず、「それでは、診断根拠を説明していただけますか?」と聞くと、「病気だと思わないから病気なんだよ。」というわけのわからない逆切れをされました。
もし、あなたがこういうわけのわからない説明(説明になっていませんが)で拉致、監禁、強制入院させられたら、どう思いますか?
この日、母が、マイクロソフト社に出す診断書をもらっていったようです。私には何の連絡もなしに、話がついていたようです。
また、この日、部屋の鍵の工事が始まりました。病室には、監禁できるように、鍵が2つ付いていますが、それを新しいものに変えていたようです。かなりの騒音が続いていました。読み進めていただくとお分かりになるかと思いますが、この病棟は結構、騒音が多いです。
2005年4月21日(木) 午前9:00、脳波検査。それ以外は、他の患者さんたちと交流。患者さんたちとは、トランプをしたり、ばか話をしたり、けっこう楽しくやっていました。他にやることがないので。ちなみにこの頃、「散歩許可」「外泊許可」というものがあることを、他の患者さんより聞いて知りました。病院側から話があるだろうと思っていましたが、結局説明はありませんでした。この件は後述します。
2005年4月22日(金) 朝夕の薬が、診察も無く、何の説明も無く、事前連絡も無いまま、増量され、種類も増えました。リスパダール3mg、ビカモール2mgです。最悪の場合、悪性症候群の後遺症で死に至る可能性もある薬を、診察もせず、何の説明も無く、事前連絡も無いまま、増量するわけです。薬の名前や後遺症については、病棟にあった専門書で、自分で調べました。説明ないですから。そして、飲まずに捨てていてよかったと思いました。
2005年4月23日(土) 22日深夜、「ドカン、ドカン」と大きな物音がしました。深夜の、ガタガタ、ゴトゴト騒音はいつものことなので気にせず寝ましたが、23日の朝、起きて見てみると、私の病室の前にトイレがあるのですが、トイレの配管が潰され、トイレとその周辺が水浸しになっていました。聞いてみると、患者さんの一人が自分の頭を叩きつけて壊したとの事です。本当かどうかわかりませんが、配管を壊すほど頭を叩きつけた患者さんはただではすまないはずです。この患者さんはどこにいってしまったのでしょう。
なお、この修理工事に、一週間以上かかり、騒音が絶えませんでした。とにかく、また騒音が増えたわけです。
2005年4月24日(日) 元彼女が尋ねてきました。ちなみに、去年から元彼女は無職です。実家なので問題はなさそうでした。この頃、ギターを弾ける時間があると知ったので、食堂でギターを弾き始めました。
2005年4月25日(月) この日、とりあえず看護室にあった書籍で、処方されている薬と、その時点で「疑い」と説明されていた診断の診断基準を調べました。薬についても診断についても、病院側から何の説明も無いので、自助努力です。この後も「疑い」や「可能性」のある病名は変遷を見せましたが、閉鎖病棟に軟禁しておいて「疑い」と説明しているのですから、川原医師が、違法な入院を認めているようなものです。
この日、元彼女、母、ケースワーカーの3人で、なにやら話をしたらしいと、ケースワーカーより聞きました。その後、母と元彼女と少し話しをしましたが、いつもどおりなので、とりあえず、この待遇はおかしいと言うことをいつもどおり話しておきました。ちなみに、母は、病院側に呼ばれない限り、一切見舞いには訪れませんでした。拉致時の映像を見た人であれば、母の行動のつじつまが合わないと思うでしょう。もちろん、拉致時の映像を見て、演技だと思った人もいるようです。
それから、この日は、JR福知山線脱線事故のニュースがあり、1つしかないテレビの中に、外の世界の悲惨な光景が映し出されていました。
2005年4月26日(火) 前日、元彼女に、ICレコーダーを持ってきてもらいましたが、川原医師に確認したところ、「診察時の会話を記録する権利は、患者には無い。」との事で、結局、退院まで記録はできませんでした。録取されてしまったら都合が悪いのでしょう。「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」で提言しているとおり、本人の意思によらない精神医療には可視化が必要です。
午後5:30〜、川原医師による2回目の診察(と称する茶番。)。診察にはスケジュールがありません。つまり、日程や時間は決められていません。精神科医に声をかけられて、「診察しましょう。」と言われるか、看護室からの呼び出しです。今回は病名が変わり、急性一過性精神性障害の「可能性」と言われました。私が診断基準を調べて、どこが当てはまるのか説明して欲しいと問い詰めたからでしょうか?とにかく、第三者による、私本人には絶対に見せない報告書が根拠で、目の前にいる私本人の言動、証言、記録に残る事実に基づいた診断理由の説明はしない、できない、でもあなたは病気、という対応は相変わらずです。私は嘘も何も言ってないのだから、目の前にいる私本人の言動、証言、記録に残る事実に基づいて、診断の根拠を説明してほしい、と言っているだけなのですが。この要求はあたりまえですよね。
2005年4月27日(水) 元彼女が尋ねてきました。ギターを教えてほしいと言う患者さんがいたので、カポタストという器具(弾きやすくする器具と思ってください。)を持ってきてもらったのですが、病院側の「必要ない。」という判断で、結局元彼女が持ち帰りました。ちなみに、持込できる品のリストはあるのですが、リストにないものに関しての判断は、尋ねた看護師によって変わる、とてもいい加減なものです。
2005年4月28日(木) 入院後初めて、服薬指導が、薬剤師さんよりありました。投薬開始から14日後です。薬に関しては、書いてある簡単な説明を読む程度で、実質的には、規則的に飲みなさい、というだけの服薬指導です。飲まずに捨てている私にはどうでもよいことでした。薬の説明に関しては、看護室にあった専門書を読んだほうがましでした。 この日、病室の移動(引越し)をしました。
2005年4月29日(金) 今年は4月からだいぶ暑いのですが、C3病棟の室内温度は30℃に上っていました。湿度計はありませんでしたので記録できませんでしたが、不快指数は相当高い病棟です。他の患者さんが言うには、病棟の温度管理は一斉にするしかなく、この時期にはまだクーラーが入らないとの事でした。不快ついでにいいますが、入浴が週2日、シャワー浴が週2日というのも不満です。毎日が基本でしょう。 なお、男性の入浴、シャワーのスケジュールは、以下の通りです(24時間表記。)。
火曜日:14:00〜16:30 木曜日:10:00〜14:00 土曜日:14:00〜16:30 日曜日:10:00〜14:00
昨日病室を移動したわけですが、移動先の病室の両隣に、患者さんが入ってきました。隣の患者さんは、有名な出版社にお勤めということでした。下ネタばかり話しており、退院したらみんなで映画を撮ろうといって、脚本を書いて、患者さんの中からスタッフを募集していました。本気でやるなら入院前にやっていると思いますが。
2005年4月30日(土) 元彼女が尋ねてきました。
【 違法拉致強制入院日記 5月 】
2005年5月1日(日) 精神科医の方々も、ゴールデンウィークはお休みです。
2005年5月2日(月) トイレ工事をやっていました。4月22日深夜に壊れた(患者の壊した)トイレの配管の工事です。汚臭だけではなく、鼻につんとくる変な臭いがしており、頭痛になりました。前記しました室内温度30℃や湿度、騒音等を考えると、病院という名前は返上したほうがよいと思えます。
2005年5月4日(水)国民の休日 元彼女が尋ねてきました。前回より、部屋ではなくて面会室で面会してほしいと言われていましたが、理由がわからないと言うと、部屋での面会となりました。そんなものです。
2005年5月5日(木)こどもの日 15:00頃、診察(と称する茶番。)がありました。私は、違法拉致、監禁、強制入院の前に、生活妨害行為等に関する文章を書いていましたので、数日前に、元彼女に持ってきてもらっていました。とにかく、事実確認も、まともな話も、診察さえ無い状態での違法拉致ですから、その文章の内容を読んで、細かに書かれている個々の事象、映像や音声として記録できる事実の、どこが病気と説明できるのかと、丁寧に問うてみました。それでも、川原医師からは、答えはありません。退院までの会話(診察と称する茶番。)を総合すると、川原医師の主張は、「あなたは病人として私の前に連れてこられたので、私はその治療をしている。」ということになります(退院後に川原医師がそう話している音声記録があります。)。それでは、なぜ、診断理由も説明できないのに、病気の可能性が100%という対応をしているのか、ときいても、「今は病気の可能性を考えましょう。」だけです。そして、肝心の診察内容ですが、この日の話は、女性関係の話だけでした。川原医師に論理的な会話は通用しません。言い方は悪いですが、事実です。前記しましたが、女性と別れたことがストレスで病気になるなら、私はこれまでの36年で、9回病気になっていないとなりません。ストレスになるかもしれない体験がひとつで見つかれば、精神科医という存在は、あなたを病気と診断する理由として使います。これでは因果関係の説明にはなりませんし、こういった精神医療が、医療を名乗っていること自体に疑問を感じます。
2005年5月6日(金) 精神病院には、レクと呼ばれる行事があります。レクリエーションの略ですが、これが治療の一環なのだそうです。この日は、おやつレクという行事があり、患者の皆さんと焼きそばを作りました。
この日から、私の隣の病室の方が、部屋に監禁されだしました。部屋で酒を飲んだからと言うことです。私から見ても、他の患者さんから見ても、どこが病気なのかわからない人でしたが。これ以外にも、見せしめと考えられる患者への対応は多くありました。中には、真っ白い部屋で、窓ひとつない、監禁専用の、クワイエットルームという部屋、直訳すれば「沈黙の部屋」でしょうか、があるということらしく、そこに数週間閉じ込められたという人もいましたし、火災報知機にいたずらをしたということで、身体を拘束された患者さんもいました。
私は、こんなものは医療だとは思いません。医療の名を借りた私的制裁です。
この日、川原医師より、「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の第33条の第2項から第1項への変更が必要なので、本日から変更しました、ということで、書面にサインをしてほしいと言われました。事前の説明が無く、事後報告の多いのも、この病院の特徴です。私が、「変更しましたということは、私がサインしてもしなくても変わらないということですか。」と聞くと、「そうです。」といわれました。条文の説明はありませんでしたが、文面から医療保護入院であることは変わらず、ここで揉めても意味が無いと判断し、サインしときました。この病院では、精神科医に説明責任は無いと思っているようです。
2005年5月7日(土) この日、ギターの弦が切れており、弾くことができず。つまらないことかもしれませんが、やることが無いので、ひまつぶし道具がひとつなくなることは、結構患者さんたちの生活に影響を及ぼします。
2005年5月8日(日) 元彼女が尋ねてきました。自動車税の納入通知が来ていたとの事で、支払いをお願いしました。軟禁されているので、税金さえ払えません。入院中、私の全財産は、元彼女が預かっていたことになります。母はそういう、私の社会生活に関する話を一切しませんでしたし、見舞いに来たこともありません。川原医師かケースワーカーに呼ばれれば来ていましたが。母の「心配している。」「お前のこれからの人生が。」なんたらかんたらと言う言葉が、信用に値しないことは、こういったことからも読み取れるでしょう。診察を受けたほうがいいのは、母のほうでしょう。診察の結果、病人でなければ、責任能力があることになるので、どう少なく見積もっても、逮捕及び監禁罪(刑220条)に値する犯罪者です。さらには、親という立場を利用した、威力業務妨害罪(刑234条)の構成要件にも当てはまるでしょう。
2005年5月9日(月) 看護師の研修生5人が、やってきました。後日も、別の研修生がやってきましたが、日付は記録しませんでした。ちなみに、長谷川病院は、精神科としては唯一、東京警察病院看護専門学校の研修先です。
日時の記録は残っていませんが、このあたりで、ダンスセラピーというのも参加しました。とりあえず何でも参加してみました。しかし、このダンスセラピーというやつは、なんだか、学生の頃誘われて行った、自己啓発セミナーというものを思い出させるような雰囲気もありました。リーダーがいて、みんなで手をつないで、立ったり、跳ねたり、しゃがんだり、叫んだり。偏見でしょうが、微妙に気味が悪かったです。それでも、どうせなので、気にせず楽しんでやりました。楽しんだもの勝ちです。
2005年5月10日(火) この日は、再度、トイレ前が水浸しになっていました。トイレは2箇所ありますが、何か起こるのは、なぜか私の病室の前のトイレだけです。原因はわかりません。そして、3時にコーヒーを配るのですが(契約が必要で、有料。)、これが廊下いっぱいにこぼれていました。さらには、トイレの悪臭がひどい一日でした。
退院後、たまたま、私と同じ長谷川病院に入院した方に話を伺うことが出来ましたが、その方曰く、「あの病院での処置は、君は病気であるんだ、ということを強引に押し付けるだけの処置だった。」、「絶対にこの病院は、看護師も医者もやばいと思っていた。」と話していました。私は、前記しましたとおり、恐怖を感じるようなことはされませんでした(私が鈍いだけかもしれません。)が、「君は病気であるんだ、ということを強引に押し付けるだけの処置だった。」という部分には納得がいきます。しかし、「君は病気であるんだ。」と言われても、根拠の無い説得は簡単に論破できます。説明にさえなりませんし。
2005年5月12日(木) この日、洗濯機が壊れました。修理に1週間ほどかかっていたと思います。この病院では、いろんなものがよく壊れ、直すのに異常な時間がかかります。なお、この日も、トイレからの悪臭はひどかったです。
午後7:30、川原医師による診察(と称する茶番。)がありました。前記しましたとおり、予定はありません。突然呼ばれます。看護室に入り、川原医師の前に行くと、第一声は決まっています。神妙な顔をして、「どおですかぁ?」です。どうもこうもありませんので、「入院前からずっと普通です。」と答えていました。川原医師は、私の件に関して、何を聞いても説明できないのですから。この日の話は、会社への復帰の話がメインでした。川原医師いわく、「会社のほうからも、こういう事情がありました、という、あなたを擁護するような情報がたくさん送られてきます。普通は、こうなってしまうと辞めさせようとするものですが、あなたはよっぽど優秀だったのですね。」とかなんとか。「どんな情報ですか?」と聞くと、「いろいろですよ。」と具体的な話はありません。
2005年5月13日(金) 午前中、他の患者さんたちとテレビを見ていると、看護師さんが、「戸アさん、歯医者です。」と言うので、「え?歯医者は必要ないですよ?」と答えると、「あ、そうですか。」と去っていきました。わけがわかりません。事前に何も聞いていませんし。その後、歯医者の話は一切ありませんでした。ちなみに、長谷川病院には歯科が併設されています。
2005年5月14日(土) この日、集団散歩という行事に参加しました。参加と言っても、自分の意志でいつでも参加できるわけではありません。ここで、この病院の、患者から聞かない限り、病院側からは決して説明されることのない、外出、外泊に関する許可の仕組みを書いておきます。聞かないと説明されないので、最悪、知らない人は一生外に出られないということになります。その仕組みは、担当医に、書面で参加許可を申し出て、医師と看護師の会議(「申し送り」といい、週1回、火曜日にしか行われません。)で許可が降りないと外出、外泊ができないというものです。これは特におかしな話ではありませんが、病院側からいっさい説明されないと言う点は、非常におかしいと思います。
この外出許可には、集団散歩(ナース同伴散歩。)、個人散歩、ショート外出、外出、外泊、という段階があり、それぞれ、行動範囲や禁止事項が定められています。集団散歩は、看護師とともに野川という川沿いを歩き、一旦休憩して、病院に戻ってくる、合計40分程度の外出です。買い物は、自動販売機で飲み物1本と決められており、その飲み物を病棟内に持ち込むことは出来ません、というものです。道程にコンビニや商店もありません。次に、個人散歩は、とりあえず一人で外に出られますが、行動範囲は、病院敷地内と目の前の道路の一角のみであり、乗り物に乗ることは禁止です。外出できる時間も決められています。次に、ショート外出は、個人散歩の拡張版で、決められた時間内に、歩いて移動できる場所なら移動できますが、乗り物に乗ることは禁止です。個人散歩とショート外出では、該当契約書に、患者本人のサインが必要です。最後に、外出と外泊は、「家族とのコミュニケーション」、「社会復帰の準備」等の理由で許可され、外出は日帰りのことであり、外泊は連泊も出来ます。見ていた限りでは、2泊3日が限度でしょう。ただし、付添い人(原則として家族。)がいなければなりません。外出、及び外泊の許可は、毎回必要で、そのほかの外出許可は、基本的に一度許可されると、取り消されない限り許可が継続します。
この仕組み自体はおかしくないと思いますが、診断材料を見せることもせず、入院させている根拠の説明もできずにこれを強制できる制度は、明らかな犯罪の許容制度です。
再度書きますが、上記の許可、契約制度が、病院側からは説明されません。仕方が無いので、知らなそうな患者さんには、ノートにメモを書き、説明をしました。
2005年5月15日(日) この日、既に顔見知りの患者さんの一人が、某宗教団体の方だというので、「多くの被害者の方が、某宗教団体が執拗な生活妨害行為をしていると言っていますけど、どう思いますか?」と聞くと、特に反論するでもなく、「それはわかりませんが、いろいろな派閥があるんですよ。」とだけ話していました。また、もう一人某宗教団体の方が患者さんとしていましたが、「今年は勝利の年。」、「共に歩まないものは魔類である。」と話していました。よく意味がわかりません。
2005年5月17日(火) この日、個人散歩、外泊の許可が出ました。別記しますが、ある理由によってこの外泊は取り消しになります。
この日は、スポーツレクという行事がありました。病院の中庭で、キャッチボールやバスケットボール等をするだけですが。
2005年5月18日(水) 外出、外泊許可ですが、この病棟では、許可の一覧が毎週、看護室の窓に張り出されます。私のところには、19日〜21日の外泊許可となっていましたが、右側に△印が書いてあり、「5月20日アポ」と追記されていたので、看護師さんに、「これは、自分で親に連絡を取れということですか?」と聞くと、「そうです。」と言われたので、とりあえず母親に電話して、迎えに来てくれるよう約束をしました。その後、婦長さんに、「あれは、20日に決めると言うことだったのよ。誤解させちゃったわね(ニコニコ)。ふふ。」と言われました。本人に対する説明が全く無いのはいつも通りですが、そもそも、この婦長さんは、外泊許可が19日〜21日なのに、20日に決める事になっているという、小学生でもおかしいと思うであろう矛盾になぜ気がつかないのでしょうか。
とりあえず母に電話連絡すると、「病院で検査が入っているので行けない。」と言い出しました。さっき電話してOKだった約束が、急用ならまだしも、「病院の検査」はありえないでしょう。予約が必要だと思いますし、体調が悪いわけでもなかったわけですから。その後、婦長さんは、「20日にケースワーカーと母と元彼女で話して決めることになっていた。」と言い出しました。そんなことも本人には知らせないのですよね、この病院は。
2005年5月19日(木) 朝起きると、看護師が見回りに来ます。その後、体温と脈を計りに来ます。これはいつものことですが、この日は、37.2度の熱がありました。本人は全く熱があるようには思っていませんでしたが、平熱が36.4くらいですので、多少熱があることになります。まあ、昨晩、「熱が出た」という人がいたので、風邪でもうつったのかもしれませんが。
午後7時頃、川原医師による診察(と称する茶番。)がありました。何度も書きますが、予定されたものではなく、突然呼ばれます。この日も、会社への復帰の話がメインで、「会社の方が、単純に精神病と決め付けないでほしいと、いろんな情報を送ってくるんですよ。」、「あなたは優秀なんですね。」という、前回と同じような話をしており、「どんな情報ですか?」、と聞くと、鹿又京子が嘘をつく傾向があったとか、そういうことですと、本当に必要な話は出てきません。
2005年5月20日(金) 5月18日の日記の通り、川原医師、ケースワーカー、元彼女で話し合いが行われ、私も参加しました。川原医師からは、精神病症状の一般的な説明だけがあり、私の場合がどうなのかの具体的な説明は全くありません。それから、6月頭あたりに退院、という話が、川原医師から出ました。その時も、母は、「退院しても、薬は飲み続けたほうがいいんですよね。」と、薬の話しかしませんでした。
この時は、会社に復帰したら証拠をつかんでやろう、くらいに思っていました。この計画も、人事担当石渡孝一によって阻止されることとなるのですが。
2005年5月21日(土) 12:00より、外泊のため、元彼女に迎えに来てもらい、病院の外に出ました。
私は、外泊の後に病院に戻っていますが、当然、診断や入院に納得していたからではありません。既に診断が下されてしまっていますから、これを覆さないとなりませんし、覆す自信があったからです。それともう1つ理由があります。病院に帰らずにいても、また拉致される可能性を考えたためです。後の民事訴訟(本人訴訟)で、私に対して行われた拉致を違法とする判決が確定しましたが、入院している時点では、法律知識も無く、普段から弁護士と付き合いがあったわけでもなく、拉致に至る経緯も、拉致を実行した人物が誰なのかも、入院目的の拉致が違法なのかどうかも、拉致を防ぐ手段があるのかどうかもわからなかったですし、やはり既に診断が下されてしまっていますから、逃げたら不利にしかならないと考えていたのです。先に書きましたとおり、後に私は、川原医師に、精神科病名にあたるものがあるか不明、治療の必要は無い、という診断書を交付させることに成功し、その後、刑法、民法、刑事訴訟法、民事訴訟法を調べて、民事では本人訴訟を行うわけです。もし、この時点で病院から逃げてしまっていたら、私に有利なことは何も無かったでしょう。
2005年5月23日(月) 午後5時、病院に戻りました。この日は、乾燥機が壊れていました。生活空間が限られているので、必要な物が壊れるのは困ります。それから、この病院は、1週間のうちに患者さんが2、3人は増えます。この時期には、叫んでいる人、歌っている人、ぶつぶつとなんだかわからないけれどもずっと話している人等が急に多くなってきました。それまでは、入院している理由がわからないような普通の人が多かったのですが。
2005年5月24日(火) この日から、病室の天井のほうより、「ブーン」という、うるさい扇風機の回るような連続音が聞こえ始めました。24時間ずっと。騒音の話は前記しましたが、さらにひとつ増えたわけです。それからこの日、例の、某宗教団体員の患者さんが、転床ということで、別の階に移りました。私のいたC3病棟は、なんでも、急性期病棟ということで、3ヶ月くらいで退院の目処が立たないと、別の病棟に移るようです。これは先日、朝のミーティングで、院長先生から話がありました。といっても、院長先生はおどおどしている感じで、最初にちょっと話して口ごもったかと思うと、スーツを着た別の男性が、代わりに全部説明してしまいました。なんだか変な雰囲気でした。
この頃からだったと思いますが、患者さんの中に、「歌詞を書くので、作曲できる?」と聞いてきた人がおり、作曲活動を始めました。何人かの方の歌詞にギターで曲をつけ、退院までに、10曲ほど作曲して、患者の皆さんや、若い看護師さんと歌ったりしていました。こういった患者さんからは、連絡先をいただいているのですが、長谷川病院を訴えて訴訟などしているので、いまだ連絡を取っておりません。みなさん、ごめんなさい。落ち着きましたらご連絡差し上げます。落ち着くかどうかもわかりませんが。
2005年5月25日(水) 元彼女より電話があり、体に蕁麻疹(じんましん)が出たといっていました。病院に行くといっていたので、午後に電話をしてみましたが、繋がらなかったため、断念しました。
2005年5月27日(金) この日も、心配でしたので、元彼女に電話してみました。とりあえず、蕁麻疹が治ったそうでしたので、良かったです。
この日、長谷川病院のカウンセラーが、「来週からカウンセリングを始めます。」と言って来ました。病院側からスケジュールが伝えられたのは、初めてです。当たり前の事が、当たり前に行われることに驚く、この異常な環境。
そしてこの日、川原医師より、任意入院に切り替えるので同意書にサインしてくださいといわれました。任意入院同意書にサインしないと退院できないというので、サインしときました。閉鎖病棟に軟禁された状態で、サインしないと退院できないといわれれば、誰だってサインしますよね。私はこれ、脅迫による意思表示だと思います。脅迫による意思表示は当然違法であり、無効な意思表示です。
2005年5月28日(土) 外泊日です。元彼女に迎えに来てもらい、病院より出ました。
2005年5月30日(月) 病院に戻る途中、武蔵境の駅前のスターバックスで、元彼女とお茶をしました。
2005年5月31日(火) 病院のトイレの中に、ドアの付いている個室が2つ並んでいるのですが、その片方に入ると、もう片方に誰か、おそらく他の患者さんが入ってきました。声からして男性だったのですが、その男性が、「パンパラパンパンパーン!パンパラパンパンパーン!」と歌い始め、「がんばれニダ!」と叫び、「ちょーせん!ちょーせん!」と連呼し始めました。最後に、「よし!」と叫んだかと思うと、トイレから出て行ったようです。当時は、ゲームかなにかの音楽か?と思いましたが、真相は不明です。「何それ?」というのが正直な感想ですが、ここは精神病院なので、何が起こっても不思議ではありません。
【 違法拉致強制入院日記 6月 】
2005年6月1日(水) 午前11:50より5分程度、川原医師による診察(と称する茶番。)がありました。しつこく書きますが、予定されたものではなく、突然呼ばれます。「再発防止のため、カウンセリングを続けましょう。」と言っていました。何の再発なのかも説明できないので根拠はありませんね、とは突っ込みませんでした。どんどんボロを出してもらったほうが、こちらも突っ込みやすいと思っていたからです。後日、診断を白紙撤回したわけですから(音声記録あり。)、正しいのは私です。
ちなみに、私を担当したカウンセラーによるカウンセリングは、1回きりでした。カウンセラーには、私の主張には、映像、音声等の記録があり、主張している犯罪が、意図的な行為であることが説明できる、一方、病気の可能性については誰もまともに説明できていない、と論理的にお話しました。そうしたら、何の連絡も無く、カウンセリングは行われなくなりました。
話を元に戻します。今回の診察(と称する茶番。)で、川原医師は、「人生では、理屈で説明できない事が起こるから、恋愛とか。」、「会社とは直接連絡を取らないほうがいい。」、「あなたは弁が立つから。」、「やりにくいなぁ。」等と、わけのわからないことを言っていました。川原さん、それは自ら、「あなたを閉鎖病棟に閉じ込めている理由を、私は説明できません。」と言っているようなものですよ。診察もせずに診断を下したのは宮内茂ですが、私を閉鎖病棟に軟禁する判断を続けていたのは、川原さん、あなたです。そうですよね。
この日、全ての公衆電話が故障しました。陸の孤島です。
2005年6月2日(木) この日から外泊です。朝、用意をしていたら、カウンセラーが現れて、「心理テストをやりましょう。」。これも当然、事前連絡はありません。この病院のスタッフは、人間の基本的な礼儀から、教育を受けなおしたほうがいいと思います。普段、私は人のことをあれこれ言うことはしないタイプなのですが、ここまで迷惑をかけられたら、はっきり言いますよ。あなたたちの常識は、社会通念的に、非常識です。
このときの心理テストというのは、ロールシャッハ・テストというテストで、インクの染みのような絵を見せられて、思いついたことを話す、というものでした。結果は聞いていません。実施したなら、結果を伝えるのが礼儀、といいますか、当たり前だと思うのですが。結局これも、お金とってやっているわけですし。それから、記入式の心理テスト(SCTテスト、及びMMPIテスト)用紙も、後日提出してください、ということで、いただきました。
なお、この検査の結果、異常なしと言われたのは退院後であり、心理検査の結果に「妄想が存在するか否かを確定することはできない。」と記載されていることを知ったのは民事訴訟提起後です。
2005年6月4日(土) 外泊より病院に戻ると、私に、「熱が出た」と言ってきた患者さんが2人いました。この病院、よく熱を出す人がいます。前記している通り、酷い環境なので、仕方ないのかもしれません。
2005年6月5日(日) 午後7:15頃、めずらしく母より電話がありました。「○○ちゃん(元彼女の名前)とは相性がいいって、星座占いに書いてあったよ。」とのんきなことを言っていました。同時期、川原医師も元彼女をほめていました。それから母は、「会社から連絡あった?」と聞いてきました。ありません。入院後も、人事担当石渡孝一は、なにやら川原医師とケースワーカーと連絡はしているようでしたが、それらは全て事後通知で、会社が私に直接連絡をしてくることは皆無でした。既に判明していたことですが、母親自身も、私に嘘までついて、会社と連絡を取っていたわけです。私がそのことを話すと、「またそんなこと言ってる。」と言われましたが、事実であり、社会通念上おかしい行動ですから、これからも主張しますよ。証拠はいくらでもありますから。
この日、記入式心理テスト用紙の記入(SCTテスト、及びMMPIテスト)を、他の患者さんたちの前で行い、その質問項目のおかしさをネタにして、盛り上がっていました。今後、この心理テスト用紙をサイトにアップしようかとも考えています。全て写真にとってあります。
2005年6月6日(月) 前記してしまいましたが、この日、私の担当カウンセラーに、私の主張には、映像、音声等の記録があり、主張している犯罪が、意図的な行為であることが説明できる、一方、病気の可能性については誰もまともに説明できていない、と論理的に、丁寧にお話しました。その後、何の連絡も無く、カウンセリングは打ち切られました。
この日は、ある患者の方と、野川公園という公園に散歩に行きました。この患者さんはとても面白い方で、木や鳥等とお話ができるといいます。本気なのかどうかわかりませんが、とても憎めない感じの方で、他の患者さんたちにネタを提供しているようにも思えました。いじられキャラという感じです。退院の際には、ポストカードに丁寧な絵を書いていただき、私の車のエンブレムのキーホルダーもいただきました。
2005年6月7日(火) ケースワーカーが私の病室にやってきて、「金曜日に会社の人事の方がいらっしゃるので、先生(川原医師のこと。)と交えてお話しましょう。」と言われました。なんでも本人のいないところで勝手に決められるということは、何度も書いていますが、「とりあえず承諾を取りに来ました。」との事でした。ちなみに、「人事担当はなぜ、私に直接連絡しないのですかね?」と聞いてみましたが、答えは「さあ?」でした。
2005年6月8日(水) 調布駅に外出しました。一人では外出が許可されないので、元彼女と一緒です。「交渉人 真下なんとか」という映画を見ました。
2005年6月9日(木) 6月に入ってから、入浴の際に行列ができるようになりました。人数はそれほど変わらないはずなのですが。この日は酷かったです。
午後2:20、服薬指導ということで、呼び出されました。かなりしつこく書きますが、予定されたものではなく、突然呼ばれます。服薬指導の話し方は丁寧ですが、要約するとこういうことです。「薬は飲みましょう。」「規則正しい生活をしましょう。」「それをしないと病気になりますよ。」。前にも書きましたが、薬を飲まずに捨てている私にとってはどうでもいいことでした。 午後8:00過ぎ、川原医師による診察(と称する茶番。)がありました。いい加減しつこいですが、予定されたものではなく、突然呼ばれます。診察と言うより、私に対して決まったことの事後報告でした。「明日会社の人事の人が来ます。」、「最初に、私(川原医師)とケースワーカーと人事の方とで話をします。」「入院時は混乱していたようですが薬で治まったようですよ、と言っておきます。」と川原医師が言うので、「私は入院時から混乱してはいませんよね?」と聞くと、「そう説明するしかないでしょう。」と言われました。この会話だけでも録音できていたら、これだけで、明らかな診断の捏造による、正当な理由無き閉鎖病棟への軟禁、つまり犯罪だと言うことが、証明できたでしょう。こんな診察内容ですから、録音禁止という規則は、病院側の自己防衛目的ですね。再度言いますが、本人の意思によらない精神医療には可視化が必要です。医者と1対1の会話に、守秘義務やプライバシーの問題はないでしょう。
ちなみに、川原医師は、「明日の会社の人事の方が来る件は、ケースワーカーが手配したので、趣旨については良く知らない。」と言っていました。もちろん、私にも知らされていません。
2005年6月10日(金) 人事担当石渡孝一が、病院にやってきました。前記しましたが、私には直接連絡は来ません。ケースワーカー経由です。私には何も知らされないまま、物事が進行します。この日、私を除いた川原医師、ケースワーカーと人事担当石渡孝一だけで最初に話が行われたようです。6月9日の日記の通り、でっち上げた「治療経過」を川原医師が話したことになっているはずです。その後、私が呼ばれました。
人事担当石渡孝一は、挨拶も終わらないうちに、「6月末で自己都合退職ということになりました。」と言いました。自己都合退職というのは、本人が決めるのではないでしょうか?とにかく、人事担当石渡孝一がやってきた話の趣旨はそれだけです。
その場にいた川原医師は、驚いた様子で、というより、驚いた演技をしているような、驚き顔を披露していました。人事担当石渡孝一が帰った後、川原医師は、「動揺するといけないので、外泊はやめにしましょう。」と言い出しました。「あの、私が動揺しているように見えますか?」とあきれながら聞いてみると、「いや、動揺するといけないので。」とだけ繰り返します。「(自己都合退職という決定は)私が何を言っても変わらない決定なんですから、動揺しても仕方がないでしょう?」と言っても、「いや、動揺するといけないので。」。精神科医という資格があると、わけのわからない理由で、人の自由を制限できます。
この日の朝、防災訓練がありましたが、閉鎖病棟の患者さん達は外に出られないので、あまり意味がありませんでした。本当に火災があったらどうするのでしょうね。
2005年6月11日(土) この日、2人の患者さんから、「退院したら会社にもどるんだよね?」と聞かれました。「あ、辞めることになりましたから。」とお答えしておきました。
少し前から、「車のレストアショップ(古い車を新品同様に仕上げるお店)をやろうと思っているので、手伝わない?実家が工場なので、設備はすごいよ。」という患者さんがいました。私も車好きなので、話は盛り上がりましたが、こんな状況なので、退院以降、連絡は取っていません。ごめんなさい。ちなみに、はじめに作曲依頼をしてきたのは、この患者さんです。
元彼女が面会に来ました。
2005年6月12日(日) 元彼女が面会に来ました。他の日には書いていませんが、この頃は、昼と夕方はギター演奏、夜はトランプという生活が定着していました。けっこう盛り上がっていました。それから、将棋を覚えました。
2005年6月13日(月) めずらしく、母から電話がありました。「ケースワーカーさんに電話したけどいないんだよ。」だそうです。それは病院の方に聞いてください。私は知りません。他に言うことがあるでしょう?
この日、ある患者さんが、おじいさんですが、私の部屋にふらふらと入ってきて、ロッカーを物色しはじめました。放浪癖のある方らしいので、看護師さんを呼んで対応していただきました。後日も2度ほど現れました。
この頃、少し前に入院してきた患者さんに、一緒に仕事をしないかと何度も誘われました。なんでも、某宗教団体と関係があると言っており、その手の記事の切抜きを私に渡し、人脈を自慢されていました。それだけの人が、なぜ精神病院で人をスカウトするのかは疑問でしたが。
2005年6月14日(火) 部屋のカーテンレールの交換工事が行われました。朝、人がいきなり入ってくるのは慣れていましたので、気にはなりませんでしたが、この後、間違って部屋の鍵を外から閉められ、監禁状態になってしまいました。間違って鍵を閉められたことは、この後も何度かありました。迷惑ですのでやめてほしいです。
この日も、入浴時間に行列が出来ていました。
午後8:00、川原医師による診察(と称する茶番。)がありました。ここまでくると、川原医師でさえも、どこが診察なんだか説明できないと思いますが、私の運命は川原医師の手の中にあります。相変わらず、事前連絡無く、突然呼ばれ、神妙な顔つきでの「どおですかぁ?」で始まります。「退職の件は大丈夫ですか?」「6月末までに退院を考えておきます。」と言われました。ちなみに、以前は「6月上旬までに退院を考えておきます。」でしたが、「退職すると言うことで、動揺するといけないので。」だそうです。私より動揺していた人に言われたくはありませんが。当てにならないことだけは確かです。
2005年6月15日(水) 調布駅近辺に外出しました。一人では外出できないので、元彼女に来てもらいました。ビリヤードとカラオケをしました。この日、ギター演奏用に、楽譜を買いました。
この日、看護室のガラスに、私の退院が6月24日、と貼り出されていたようです。「ようです。」というのは、次の日、他の患者さんに教えてもらったからです。こんなことさえ、本人に対して直接連絡がありません。
元彼女より電話がありました。彼女のお父様の容態が悪いとの事でした(彼女のお父様は、先日お亡くなりになり、お通夜に参列してまいりました。ご冥福をお祈りいたします。)。
2005年6月16日(木) この日、真偽の程はわかりませんが、公明党から市議選(?)に出馬していたという患者さんから、「次の選挙は非常に厳しい戦いです。」、「大田区にご親戚、お知り合いの方はいませんか?」と執拗に話しかけられました。30分近く同じ話を。
元彼女が面会に来ました。
2005年6月18日(土) 元彼女と、近所の焼肉屋さんに、焼肉を食べに行きました。
2005年6月19日(日) 武蔵境のイトーヨーカ堂内、和食屋さんでそばを食べました。食べられないほどまずかったので、元彼女に食べさせてみると、「これは食べられない。」といいます。粉を食べているような食感でした。お店の人もお金を取りませんでした。そして、病院に戻りました。
2005年6月20日(月) ケースワーカーより、「明日、会社の人事の方が来て、お話をするといっていました。」と伝えられました。相変わらず、私に直接連絡はしてきません。「石渡さんですか?」と聞くと、「そうです。」と言っていました。私が、「入院していると何も調べられないので、退院後がいいんですけどね。」と言うと、「出来る話は入院中にしておいたほうがいいんじゃないの。」と、話のかみ合わない答えが返ってきました。私が何も調べられない状態のうちにいろいろと片付けたかったのでしょう。それから、ケースワーカーは、「24日(退院日)はお母さんに来てもらうようにしました。」と言います。私には何も決める権利がありません。何度も書きますが、全ては事後報告です。だいたい、人事担当石渡孝一が何しに来るのかもわからないんですから、困ったものです。
2005年6月21日(火) 人事担当石渡孝一がやってきました。「退職の件で今日は来ました。」と、退職手続きについて、口早に話し始めました。それならそうと、事前に言えばいいと思うのですが。そして、石渡孝一は、私が、拉致前、念のため、上司、人事部代表、そして石渡孝一に確認しても「無い。」と言われていた「退職届」の様式を、私の前に差し出しました。「あるんですね。」と突っ込むと、「うん、そうですね。確認取られないようなところに持ってますんで。」と言っていました。隠す必要があるのでしょうか?
結局、人事担当石渡孝一の来た趣旨は、「とにかく退職に関する書類を6月30日までに出してください。」と伝える、ということだったようです。しかも、30日までに話の出来る日は、1日しかないといいます。退職の件はもうどうでもいいので、私は、強制入院に関わった人物の相関関係を聞きだすため、いくつか質問をしました。この時は、川原医師がおらず、ケースワーカーのみが同席していました。人事担当石渡孝一は、帰り際、「今のお話は、先生にもお伝えいただけるんですよね。」と、ケースワーカーに確認していました。
この日、病院の閉鎖病棟内の廊下で。点滴をしてうつむきながら、たどたどしく歩く無表情な男性。そしてその背中には「LIVE LIKE THIS !」(おまえはこんな風に生きていくんだよ!)と書かれていました。売ってるんでしょうか?そんなTシャツ。
尚、後日、人事担当石渡孝一がケースワーカー経由で連絡してきた「都合の良い日」は、6月29日のみでした。その日は社員総会の日で、顔見知りの社員とは、一人とも出会いませんでした。会社にあった私物さえも取りに行くことが許可されない状態でしたし、石渡孝一によれば、会社のパソコンの私のメールボックスは、私に何の確認も無いまま、消去したそうです。
2005年6月22日(水) 外出日です。調布の駅周辺に行きました。一人では外出できないので、元彼女に来てもらいました。元彼女が途中で具合が悪くなったとの事で、喫茶店で休憩しました。
2005年6月23日(木) 退院祝いということで、外出可能な患者さん5人が、調布飛行場にある喫茶店に連れて行ってくれました。
午後8:40、川原医師の診察(と称する茶番。)がありました。書くのも面倒になりましたが、事前連絡は無く、突然呼ばれます。そして、神妙な顔をして、「どおですかぁ?」。「○○さん(元彼女の名前)とはどうするの?いろいろと親身になってくれているようだし。」と話し始めました。これって、診察なんでしょうか?そして、川原医師は、「退院後は、土曜日に診察でいいですか?」、「目黒にあるクリニックね。私がいますから。」と告げました。
私は、診察と称する茶番劇の録取できる状態で追及を行いたかったので、退院後、この長谷川クリニックに何度か通うことになります。そして、前記のとおり、川原医師医師は、私の追及に対し、「幻覚がないし、それから他にも病的体験が無いし、興奮するわけでもないし、話してるうちにおかしくなっちゃうわけでもないし、机の上に乗っかって暴れるわけでもないし」、「で、あなたの場合は、そういう意味ではその、微妙なのね。だから、明らかな、その精神病症状が、だから、わかんないのよ。その、妄想なのかどうか、なのか、がね。」と話し、その後「現時点で精神科の病名にあたるものがあるかどうかは不明である。したがって、継続的な治療は必要としない。」との診断書を交付することになります。言い逃れを考慮したまわりくどい内容の診断書ですが、録取した会話内容から、入院当初より診断根拠の説明が全くできないこと、診断を白紙に戻すと話していることは明白です。
2005年6月24日(金) 退院日です。一度も見舞い目的で病院に来なかった母がやってきました。元彼女もやってきました。川原医師、ケースワーカーと5人で話をしましたが、話の内容は、「今後の治療方針」でした。そもそもの病気が説明できないのですから、何をいまさら治療なのでしょうね。彼らにとって、私はどうしても病気でないと、都合が悪いようです。この場でも、母は、「薬は飲み続けたほうがいいんですよね。」「全て先生にお任せします。」と川原医師に話していました。母の信ずるものは、薬だけのようです。飲まずに捨てられている薬ですが。
なお、この日を最後に、母が私を尋ねてきたことは一度もありません。これを拉致前後の映像音声記録と対比すれば、この母親の役割が、親という立場を利用して、精神科診断の捏造、拉致、入院歴の捏造、そして、それによる犯罪の隠蔽に加担するだけの役割であったことを物語る事実でしょう。
話の後、診断材料となった報告書等の開示を求めると、ケースワーカーと川原医師が、「それはカルテ開示の申請になります。」と言うので、カルテ開示の申請書を記入しました。これがいろいろと理由をつけられ、民事訴訟提起後まで開示されないことになります。
違法拉致強制入院日記はここまでです。もっといろいろと書けることはあるのですが、当時の日記に記録されていないことは、なるべく書かないことにしました。正確性に欠けますので。
なお、退院後、ある精神科医の方に事情をメールしたところ、「長谷川は悪い情報だらけですね。」という返信を頂いています(ヘッダーつき電子記録あり。)。
【 本書のおわりに 】拉致された日から退院するまで、私は単に軟禁されていただけです。説明もなく処方された薬は全部捨てていましたし。本人はなにも変わっていません。それがお分かりいただけたかと思います。
退院後、法律知識の無かった私は、刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、それから、精神保健福祉法と関連法令や判例を調べ、刑事告訴と民事の訴えの提起を行いました。
そして、3件の民事訴訟を通じ、また、他の医療保護入院事例及び判例を調べることで、医療保護入院制度を国家犯罪として訴えるに足る根拠を得ました。
よろしければ、「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」をお読みになってください。冒頭でも書きましたが、同書では、国が、冤罪よりもはるかに簡単な方法で、国側の手を汚さずに、本人には知らされない一方的な報告内容により、国民を拉致監禁し、社会的に抹殺することのできる制度を温存し、幇助している事実を、判例と法令から証明したうえで、精神科診察の可視化などの提案を行っています。同証明の根拠となる判例は、全ての国民に適用可能なのです。
以上、お読みいただき、ありがとうございました。 追及が進みましたら、本書、「国家犯罪としての医療保護入院制度、その証明」、「違法拉致冤病のあらすじと証拠」の改定、もしくはさらなる続編にてお知らせいたします。
2010年11月3日 戸ア 貴裕
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